コリント人への手紙第二5章10節
「私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストのさばきの座の前に現れなければならないのです。」
今月、小禄バプテスト教会の日曜礼拝では、神の裁きということについて御言葉から学んでいます。裁きという言葉はイメージ的になんとなく怖い感じがあるかもしれません。自分が裁かれるということに対して嬉しいとか、待ち遠しいとかの感情は普通持たないのではないでしょうか。しかし、聖書は創世記から黙示録に至るまで、裁きについて繰り返し語っています。あまり触れたくないテーマだからといって、真理をぼやかすというようなことがないように気をつけたいものです。
今日の御言葉は、パウロが明確に私たちが受ける裁きについて語っている個所です。幾つかのポイントがありますので、一つ一つ見てみましょう。まず、私たちが行ったことは善であれ悪であれ、すべて裁きの対象になるということです。普通は悪いことが裁きの対象になると考えがちですが、実は良いことも裁きの対象になるのです。このことから神の裁きの一つの性格が分かります。つまり裁きというのは、私たちに対する神の評価の側面があるということです。二つ目に、報いを受けるために裁かれるということです。この報いというのは報酬とも言い換えることができます。報酬は罰則とは真逆のもので、良いことに対する評価として与えられるものです。終末における神の裁きは、私たちを懲らしめたり刑罰を与えるだけでなく、ご自身の無尽蔵の富の中から私たちに贈り物を下さる時でもあるのです。イエスはマタイの福音書25章の中で、主人が遠い町に出かけている間、預かったお金で商売をして富を増やした僕に対し、「よくやった。忠実な良い僕だ。」とその労をねぎらい、報酬を与えるというたとえ話をしました。これはまさに神の裁きについての描写なのです。3番目に、私たちが立つべき裁きは、キリストの裁きの座であるということです。裁かれる方はキリストです。最初に「私たちはみな」とあるように、一人の例外もなく全員がキリストの裁きの前に立つことになります。先ほどのマタイ25章のたとえ話で、主人が僕たち一人一人に、何をしたかを丁寧にチェックしたように、イエスは私たち一人一人が地上にいる間なしたすべてのことをチェックされるのです。
ところで、今日の個所では私たちは「肉体においてした行いに応じて」裁かれるとあります。これは私たちが恵みにより、信仰によって救われるとするキリスト教の最も大切な教えと矛盾していると感じる人もいるかもしれません。確かに私たちは信仰によって救われるのであって、行いによって救われるのではありません。実は、今日の御言葉は、神はすべての人を裁かれると言っていますが、すべてを救われるとは言っていません。救われるか救われないかは信仰によりますが、裁きの基準には行いも関係してくるのです。そしてやがてイエスが来られるときに私たちがいただく報いは、私たちが信仰を用いてどれだけ神のために正しい行いを行ったかによって決まるのです。本当にイエスを心から信じイエスに従うことを願っているなら、それは行いに現れるはずです。イエスはそれを私たちに期待しておられます。天においてイエスと共に報いを喜ぶことができるように、今という時を用いていきましょう。